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日本語教育の役割 日本語教育は脅威?
リリアン テルミ ハタノ
文部科学省は、2014年度から、日本語指導が必要な外国人児童生徒などに対する日本語教育の充実を目指す「特別の教育課程」を制度化した。日本語の「特別の教育課程」とは、何を意味するのだろうか。
児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)が、国連総会で1989年に採択され、1990年に発効し、日本が同条約を批准して20年以上が経った。
しかし、日本では、現在も、外国籍の児童生徒には、就学も進路も法的保障がされない状況が続いている。
最近になってようやく、日本籍の子どもたちでさえ12万人もが不登校になっていることや、正規の一条校[注]に通っていない子どもたちの存在が、注目を浴びるようになり、2015年、フリースクールなど一条校以外の場で学ぶ子どもたちの教育への権利を保障するための法的制度の実現へ向けて、国会でも議論が始まった。
一条校以外の場が、学校あるいは教育の場として認められて、公的支援の対象になれば、学びの多様性が法的に初めて保障されることになる。そのため、国会で始まった議論には、ブラジル学校をはじめとする外国人学校からも大きな期待が寄せられている。多様な学びが根本から保障されれば、当然ながら、教育をめぐる従来の環境は一変することになる。
2015年は、多くの日系人とその家族が就労制限を受けることなく来日することを可能にした改定出入国管理及び難民認定法が施行されて、25年目という節目の年である。日本語指導が必要な外国人児童生徒の調査が実施されるようになってからでも、20年余りが経過した。1990年代に来日した多くの日系人たちは、在日ブラジル人や在日ペルー人などの一世であり、既にその二世や三世までもが誕生している。このような状況の変化を受けて、日本語教育の役割も当然変わっていかざるを得ないであろう。
では、現在の社会状勢下で、日本語の「特別の教育課程」を制度化することは、何を意味するのであろうか。
国語と日本語の違いについての現場教員の認識は多様であろう。それでも、少なくとも、日本社会で不自由なく生きていくために、日本籍の子どもであろうが外国籍の子どもであろうが、日本語を使う能力が必要なのは、明らかである。その意味で、日本の公立学校において日本語を「特別の教育課程」としてともかく位置づけたことは、評価すべきであろう。特に、日本で高校進学や大学進学を目指す子どもにとって、日本語は欠かせない。子どもたちの日本での進学の機会を保障していくためにも、日本語教育の役割は今後ますます重要になっていくであろう。
ただ、私は、近年、かつてないほど「日本語教育を脅威」と感じる場面が増えている。そのことについて、少し説明しておきたい。
20数年前、日本の大学院に留学してきた頃の私は、将来はいずれブラジルに帰国し、日本語教師を志すことになるのではと、漠然と考えていた。
高校生の頃から来日前までの私は、日系人の先輩として、地域の日系の子どもたちに日本語を教えていた。日本に留学してからの私は、日本語ボランティア活動に関わりはじめ、就労のために来日していた同胞たちに、毎週土曜の夜に日本語を教えるようになった。一日の仕事を終えた後、彼ら・彼女らの多くは、目は疲れで充血し、明らかに疲労がたまっている様子なのに、懸命に日本語を習得しようとしていた。その姿勢に深く感銘を受けたことを、よく覚えている。
私は、幼児期から、家庭内では日本語で両親と話し、それ以外ではほぼ現地語(ポルトガル語)で生活してきた。彼ら・彼女らのように、必死に努力して日本語を習得してきたであろうかと、我が身を振り返りもした。
彼ら・彼女らは、まさに今「生活者としての外国人」とくくられている人々であった。
その頃、私は、大学院の授業で、日本語教育が専門の教授から、「日本語教育をやめるべきだ」という発言を聞いた。なぜ自らの専門分野を否定する発言をするのか、不思議でならなかった。
当時の私は、日本語教育能力検定試験の合格を目指すほど日本語教育に関心を寄せ、日本語教師を目指していた。日本語を教えることの積極的意義について考えたことはあっても、日本語教育の功罪という視点で、多面的に考えることはあまりなかった。しかし、「日本語教育をやめるべきだ」という教授の発言と社会言語学の授業などを通して、私は、ステータスが高い言語とそうではない言語という、言語間のステータスの「差異」によって、多数派と少数派の関係に大きな影響が生じるという力関係の違いを、いつからか意識するようになっていた。
なぜ日本語教育を脅威として感じるようになったのか。
それは、外国にルーツある子どもたちの母語/継承語との共存というテーマに関係している。
国際結婚家族など、ルーツの多様性に満ちた家族の増加に伴い、家族内や親族間の会話に日本語以外の言語を用いる家庭も、当然、増加している。
しかし、そのような家庭の子どもたちが日本の学校に通うことになれば、どうなるだろうか。
日本の公教育は、国外の多様性については教育内容に少しずつ取り入れているが、国内の多様性については、基本的にまだ無頓着である。特に言語については、日本語のみが評価され、母語/継承語を犠牲にしてでも、いち早く日本語を習得することが優先されるべきだと考えられているように見える。
たしかに、母語/継承語の重要性は、最近少しずつ話題になるようになってきた。しかし、いまだに学校教師が、日本語を話せない保護者に対してさえ、家庭内でも日本語をできるだけ使用するようにと、直接的であれ間接的であれ、指導したり、二世や三世の子どもたちに対しては、日本語、日本文化が何よりも価値があるものであると推奨したりする光景が、珍しくない。
このような現状の中で、日本語教育にのみ力が入っていく様を見ると、どうしても日本語教育が脅威に思えてしまうのである。
日本語教師、日本語教育関係者には、外国にルーツをもつ子どもたちやその家族にとっては、母語/継承語も日本語と同様に重要であることをしっかりと認識し、母語/継承語の重要性を受け止める感性を持ってほしい。そして、家族の中に、使用言語が2言語、3言語併存することもけっして珍しくないことを知り、子どもたちの多様性が存分に活かされるような教育を、目指してほしい。そう、切に願う。
《注》
[1] 学校教育法(昭和22年法律第26号)の第1条に掲げられている教育施設の種類およびその教育施設のことである。幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校のことを指す。
(2015.09.01)
《プロフィール》
近畿大学総合社会学部准教授。南米系の子どもたちのための居場所づくり、ポルトガル語学習、日本語学習、学校の宿題の手伝いなどを目的とする支援グループの活動に、1999年の立上げ時から関わり、主に母語(継承語)としてのポルトガル語指導を担当している。「在日ブラジル学校の現状からみる課題」『研究紀要』13:117-149(世界人権問題研究センター, 2008)『マイノリティの名前はどのように扱われているのかー日本の公立学校におけるニューカマーの場合—』(ひつじ書房, 2009)「在日ブラジル人を取り巻く「多文化共生」の諸問題」植田晃次・山下仁(編)『「共生」の内実—批判的な社会言語学からの問いかけ』(三元社, 2011)など。