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山頂を目指す日本語教育者。

大海を泳ぐ日本語学習者。

 

吉開 章 (よしかい あきら)

 

 

 発展途上国のライフラインはまず携帯電話から整備され、子供たちは水道水を飲むより先にスマホで世界の情報と知識を得る。世界の二宮金次郎たちは、薪を背負いながらスマホで勉強しているのだろう。経済成長著しい東南アジアの人々にとって、日本語学校に通うお金があったら日本を旅行したいと思うのも当然だ。彼らはネット上の無料リソースやSNSを使って学習するに違いない。

 

 ネットを活用して自律的に日本語を学ぶ者たち(以下、「ネット学習者」)は、日本語教育界・日本語教師の関心の有無にかかわらず、もはや現実の存在である。私は2009年以来、ネット学習者と直接触れあってきた。主宰する「The 日本語 Learning Community」は2016年内に2万人達成が見込まれ、200人以上の日本語教師有資格者がチームとして日々ネット学習者に接している。そこでの私の役割は管理業務と集客活動にすぎない。私はただの会社員であり、自分を日本語教育者と思っていない。だからこそ論じられる点もあると信じたい。

 

 2014年、私は日本語教育関係者にもっとネット学習者のことを知ってもらうべく、論文発表を決意し、各種学会にも参加した。はじめて参加した国内の某学会の対話セッションで、私が「ネットには学校に行かない学習者がたくさんいる。日本語教育界が彼らにどう取り組もうとしているのか関心がある」と発言すると、ある参加者が私に言い放った。

 

「学校に来ない学習者? そんなの教師に関係ないじゃないか。」

 

 また、海外某学会のパネルディスカッションでは、海外の著名な教授が高らかにこう言った。

 

「他の有名大学はMOOCを導入したけど、うちの大学では私が止めさせた。だって被害者が出るから。」

 

 これらの発言は衝撃だった。これが日本語教育の定義か。これが日本語教育研究者として山の高みを目指すということなのか。それ以降もいろんな学会に参加したが、私の活動を面白いと言ってくれても、ネット学習者を自分ごととして考える関係者は極めて少数だった。一方で、あることにも気がついた。私の関心はいわば「日本語学習者学」であり、特にネット学習者という領域はほぼブルーオーシャンだということを。

 

 国際交流基金の教育機関調査は機関所属の現役学習者数総計にすぎない。学校だけが学習の場だった時代には、それがもっとも効率的な統計手法だったろう。しかし現代の学習者は教育機関を卒業後もネットに舞台を移して容易に学習を継続する。彼らは国境のないネットの世界を自由に動きまわり、教材や学び方を自分で選択し、日本人相手や学習者同士で日本語を実践している。一度も学校に行かずにネットで独学している学習者の存在も忘れてはいけない。日本語教育者が山の高みを目指している間に、日本語学習者はすっかり大海を泳ぐ生き物になった。

 

 2016年3月現在、私のFacebookコミュニティにはミャンマー人が400人以上いる。4万人を超えるミャンマー人日本語学習者グループもある。ミャンマー人ユーザー全体の特性を調べると、77万人が日本語に関心を持っていた。一方、2012年国際交流基金の教育機関調査による学習者数は3297人。2016年発表予定の数字ではどれだけ差が埋まっているだろうか。

 

 日本語教育界がいまだネット学習者に無関心である主な理由は、統計が存在しないからである。一方で調査の機運も盛り上がっていないのは、「ネット学習者なんて教師に関係ないじゃないか」という支配的考え方が、新しい一歩を踏み出す障壁になっているからだろう。まさに堂々巡りの状態である。ネット学習者は海外日本語教育・国内日本語教育のどちらの対象でもないポテンヒットの状態にある。

 

 吉開(2014)のネット学習者の学習形態調査(どのようにして勉強しているか・していたか)では、教育機関に加え「ひとりで」などを含めて複数選択させたところ、「ひとりで」と教育機関を同時に選んだ回答が漢字圏学習者・非漢字圏学習者とも30%あり、学校に通いつつも独学意識をもって学ぶ学習者の存在が明らかになった。また「ひとりで(=独学意識をもって)」を選んだ回答全体は、漢字圏(主に香港)で40.9%、非漢字圏で65.4%に上った。

 

 現在の学習者像は、教育者側の都合で定義したものである。本来学習者の定義は、所属ではなく「本人が自分を学習者だと思っている」ことであるはずだ。堂々巡りの構造を打破するには、まず日本語教育界自ら、学習者の定義・範囲を根本から見直すべきだろう。教室という枠を取っ払えば、世界にはあふれんばかりの学習ニーズと消費ニーズが転がっている。日本語教育の対象が現役学生から学習経験者や自律学習者まで拡大すれば、訪日観光市場や民間国際交流など、もっと大規模な国策の枠組みの中で、日本語学習者が脚光を浴びることになろう。長年の課題である待遇問題解決の糸口になるかもしれない。

 

 日本語教育界は今新しい地図を作ろうとしているようだ。その中に、海図は含まれているのであろうか。

 

(2016.3.1)

 

 

参考文献:

国際交流基金(2013) 「2012年度日本語教育機関調査」(2016年3月1日)


吉開(2014) 「日本語学習者の学習意識における学習者本人と日本語教育者・一般日本人の認識の差」『第10回国際日本語教育・日本研究シンポジウム予稿集』(2016年3月1日)

 

 

《プロフィール》

東京大学工学部卒。株式会社電通で主にインターネット広告と海外デジタル戦略を担当。会社員のかたわら2009年に言語交換サイトLivemochaに参加して以来日本語教育(の真似事)に熱中。2010年に同サイトの公認チューターにスカウトされたのをきっかけに日本語教育能力検定試験に合格。2014年より活動をFacebookに移し、日本語教師有資格者による日本語学習者支援コミュニティ「The 日本語 Learning Community」を主宰。2016年3月現在119の国地域から1万5千人以上の学習者、2百人を超える日本語教師と卵たちが集う。ネット学習者に関して発表した第10回日本語教育・日本研究シンポジウム(香港)のスライドはこちら

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