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おわりに そして はじまりにあたって

神吉 宇一 (かみよし ういち)

 

 

 本書では、「はじめに」でも述べたとおり、「地図を描く」という比喩的な表現で、日本語教育学の体系化について論じましたが、この地図はまだまだ不十分なものです。そこで、これからはwebサイトを活用して、本書の議論を継続し、「地図を描き足していく」作業を進めていきたいと考えています。ひとまず2年をメドに、本書の第3部「わたしが描く、日本語教育の『地図』」を増やしていくかたちで、議論を継続していきます。

 

 本書では「おわりに」を書いていませんので、本書執筆の裏話として、facebookページに書いた内容を改めてここに書いて、「おわりに」の代わりとし、そして新たな議論の「はじめに」につなげていきたいと思います。

 本書はものすごいスピードで執筆されました。本書の執筆陣が初めて顔を合わせたのは、2014年10月25日です。そして、2015年5月20日には出版されました。無理なスケジュールに対応してくれた超多忙な各執筆者には、本当に感謝しています、ありがとうございました。

 本書の出版後、さまざまな方からご意見、ご批判をいただきました。どれもなるほどと思わされるものばかりでした。今後、webでの発信も加えて、さまざまな議論が起きることを期待したいと強く感じています。

 

 私は、地図を描くのが好きな子どもでした。毎日、晩ご飯の後、地図を描いて遊んでいました。そんなことは長らく忘れていたのですが、本書の執筆を進める中で、「地図地図地図地図……」と考えているうちに、ふとそのことを思い出しました。同時に、小学校6年生の夏休みの宿題に関する記憶がよみがえってきました。その宿題のお題は、「シャボン玉に乗って空を飛んだ気持ちになって絵を描いてみましょう」というようなものでした。私は、日本地図を引っ張り出してきて、幼少時代を過ごしていた小倉の町を中心に、九州、本州、四国、朝鮮半島から大陸までを見下ろしている絵(というか地図)を描いて提出しました。後日、その絵(地図)には、赤ペンで大きく×印が書かれて戻ってきました。絵を描けと言われたのに、地図を描いたことが、先生の意に沿わなかったのでしょう。

 またあるとき、図画工作の授業で、友だちの顔を描くことがありました。みんなは絵の具をまぜて、一般的に「肌色」と言われる色を作って塗っていました。しかし、わたしは色を混ぜるのがめんどくさかったことと、その色の名前が好きだったことで、レモン色という絵の具をそのまま使って、友だちの顔を塗りました。その絵はあろうことか福岡県の賞をとり、黄疸(だん)が出たような友だちの顔は、長らく学校の掲示板に飾られていました。

 

 木村宗男先生の言葉に「学習者によかれと思って一生懸命やったことが、今にして思えばひどいことであった。同じ過ちを若い皆さん方には繰り返してほしくない。」というものがあります[1]。木村先生は、第二次世界大戦における南洋諸島等での日本語教育を振り返る文脈でこのことを述べています。しかし、そのような文脈に限らずとも、「教師がよかれと思ってやったこと」が実はとんでもないことだったというのは、よくあることでしょう(もちろん、当初の意図と異なる形でとんでもなくよいことが起きる可能性も含めて)。私は常にこのことに敏感であり続けたいと思っています。

 

 日本語を教える仕事をしていると、教室での学習者の振る舞いに、腹が立つことがあると思います。なぜ、学習者に腹が立つのでしょうか。

 もちろん、私に直接危害を加えようとしている場合や、罵詈(ばり)雑言を浴びせてくる場合は、腹が立つこともあるでしょう。それはもはや、学習者と教師という関係性を超え、危害を加えようとする人とされる人という関係で考えるしかないでしょう。しかし、やる気がないとか指示通りやらないとか礼儀がなってないとか……、いわゆる「学習者としての振るまい」に腹が立つというのは、どういうことなのでしょうか。

 なぜ、学習者に腹が立つのでしょうか。

 この「なぜ」について考えてみることは、意外と悪くないのではないかと思っています。

 ヘーゲルの議論を引くまでもなく、人が生きていくうえで、自由というのは大切なものだと思います。自由に生きていきたいからこそ、さまざまな争いも起きてしまいますが、しかし、自由に生きていきたいというその人の思いを、否定することはできないと思います。この自由という考え方と、「教室」「教師の役割」「ことば」「コミュニケーション」「共生」等々を、どのように整理して議論していったらいいのでしょうか。異なる人が集い、それぞれが自由を主張するときに、そこに何が起きるのでしょうか。将来の自由のために、今、不自由を強いるということがあってよいのでしょうか。また、ある種の知識やスキルを持った人の前では、それを学ぶ人は自由をいったん留保しなければならないのでしょうか。

 

 本書は、とても自由に執筆をしました。好きなようにやらせてもらったなあという感覚は、同時に改めて、自由というものへの問いとなって立ち現れてきています。私にとって、日本語教育に携わるということは、人が自由に生きていくとはどういうことかということについて、考え続けていく作業だといえると思います。

 

 

《注》

[1]  この木村先生のことばのオリジナルがどこにあるか、ずっと探していますが見つかりません。ですが、複数の方に、1992年の東京外国語大学での日本語教育学会春季大会でこの発言を聞いたとうかがいました。細かい文言は異なるかもしれませんが、このような趣旨の発言をされたのだと思います。

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(2015.07.03)

 

 

《プロフィール》

長崎外国語大学 外国語学部 特別任用講師

大阪大学大学院言語文化研究科博士後期課程単位取得満期退学。修士 (言語文化学)。

小学校教員、政府系財団職員をはじめ、広告代理店、葬儀業、打上花火業、自動販売機冷温切り替え作業など、正規・非正規30以上の職を経験し、2013年9月より現職。前職の一般財団法人海外産業人材育成協会 (HIDA) でアジア人財資金構想事業やEPA看護師・介護福祉士育成事業等に従事。以来、日本語教育の「外部」との連携をどう構築するかに興味を持つ。アイデンティティはラテン系西日本人。主な著書に『NAFL日本語教師養成講座 世界と日本』 (アルク, 共著)、『内容重視の批判的言語教育』 (ココ出版, 近刊, 共編著) がある

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