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自身の対話の力と向き合う

―ディスカッションの授業を通して考えたこと―

當山 純(とうやま じゅん)

今、行っている実践をとおして、ことばを学ぶ意味について考え、さらに自分自身の対話の力に向き合う機会を得ました。また、そのきっかけとなった、ある本との出会いもありました。今回はこのことについて述べたいと思います。

 

​​「ディスカッション」・・・なにを学ぶ?

現在、ディスカッションという授業を担当しています。学習者は、週末だけ大学院で学ぶ社会人です。ほとんどが平日は仕事をしており、その多数が日系企業またはその関連会社に勤めています。この授業を初めて任された1年前は、最近の時事的な話題をとっかかりに、意見を出し合い、最終的にはそこから垣間見える日本人や日本の社会について、自身の社会、また価値観などと比較しながら考え、考えたことを表現できればいいのかぐらいに考えていて、実際にそのような授業になりました。学生たちも活発に意見を出してくれたと思いますし、学生からの授業評価もよく、そこそこ成功ぐらいに考えていました。

 

しかし、2年目の授業が始まる少し前から、「そもそもディスカッションを学ぶとは、どういうことなのか」「何のためにディスカッションを学ぶのか」という点が、私の中でクリアではないということに気づき始めていて、今年のこの授業はどうしたものかと悶々としていました。

 

ある本との出会い ―なぜ議論が必要なのか―

そんなときに、加藤哲夫さんの『市民の日本語―NPOの可能性とコミュニーケション―』(以下、『市民の日本語』)に出会いました。この本の著者は、NPO活動をしながら、話し合いの方法、議論の場作りについて考え、実践をしていた方です。この本の「はじめに」には、こんなことが書かれています。

 

「いままでの議論の仕方では、声の小さい人の意見はなかなか表面に出てきにくかったと思います。声の大きさとその指摘の重要さには関係がないのです。論理的に説明できなくても、他の人が気づいていない重要なポイントに気がつく人もいます。もしかしたら、議論全体の前提自体を、問い直すような重大な問いかけが、そんな小さな声にふくまれているのかもしれないのです。」

 

まず、私自身の議論の場での振舞いを考えさせられました。私はここでいわれている、よく発言する「声の大きい」人だと思います。そして、職場の会議などで発言がなく、うまく議論が進まないときなど、どうしたらみんなが「声の大きい人」になれるのだろうかなどとおこがましくも考えたりしていました。時折、話が通じる仲間と深く話せるチャンスがあると、なぜ他の人とはこういう議論ができないのかなと思ったりしたこともあります。そのときの私は完全に「上から目線」であり、「小さな声」に耳を傾けようという態度が欠けていました。議論ができないことの原因は私の側にもあるということに、今さらながらに気づかされたのです。さらに、教室という場においては、教師のまとう権威、母語話者であることの力が重なり合っていて、「小さな声」をさらに小さくするような要素が多いことにも思いが至りました。

 

もう一つは、なぜ私たちにとって議論が必要なのかということです。この『市民の日本語』は、現代社会の抱える問題、例えば環境問題や地域の問題は、その地域の成員が自身の問題として考え共に行動しなければ解決できなくなっており、そのためには一人ひとりが議論に参加し、その結論が多くの人に納得できるようになっていなければならないと指摘しています。そして、納得するためには人々がその議論のプロセスに参加できるような参加型のコミュニケーションの方法が必要だと述べています。ひるがえって、私の学習者のおかれている状況を考えてみると、その多くは会社で文化的背景や、立場が異なる人々と日常的に接しています。日本人と話すときは、非母語話者である学習者は「声の小さい」側にいますが、数の上では多数側であることが多くなります。そのような中で、日々起こる問題を解決したり、よりよい職場環境を模索したりするためには、それぞれの文化的背景や、力関係をこえて、皆がお互いの声を聞き合い、意見を出し合う必要があります。そうすることで、お互いに納得し、共に導き出した結論のもとで責任をもって働くことができるからです。

私は、ディスカッションの授業でめざすべき日本語は、理性的、客観的、論理的なものであるべきだと考えていました。しかし、それは表面的で必要以上に形式偏重な考えだったのだと思います。日本語を磨き、論理武装して、ディベートで勝てるようなより「声の大きい人」になることをめざすだけでは、学習者の置かれた状況で実りあるディスカッションは成り立たないのではないでしょうか。

 

「ディスカッション」2年目は・・・?

結局、2年目の実践は、ペアの教師と相談し、授業目的に「問題を解決したり、アイデアを出し合うためのディスカッションに貢献できるようなコミュニケーションとはどうあるべきかを考え、実際にやってみる」という項目を追加しました。そして授業は、教師が選んだトピックについて自由に意見を言い合うというウォーミングアップをしながら、教師がディスカッションのファシリテーションの例を見せることから始めました。学期の後半は、学習者のグループが、自らファシリテーターとなってディスカッションをするプロジェクトワークをすることにしました。『市民の日本語』では、よく議論の場作りということが出てきます。ファシリテーターというのは、その場作りをする役割を担った人であるわけですが、議論に参加している一人ひとりがファシリテーター的視点を持てれば、よりよいディスカッションができるようになるのではないかと考えたのです。また、ファシリテーターをしながら、「声の大きい人」の持つ権力に気づいたり、願わくばその力を「ほぐす」ような体験ができたらいいなとも思っています。

 

ところで、ディスカッションについて考えれば考えるほどわからなくなってしまったこともあります。それは、評価です。「話すことの評価」すべてにも通じることですが、そもそも一人では成り立たないディスカッション、対話というものを、個人の「能力」として評価できないのではないかという問題に突き当たりました。「声の大きい人」が優れているという立場に立つのなら、評価は容易です。しかし、そうではない、となったときに、急にわけがわかならなくなってしまいました。今回の実践においては、新たに加えた上述の目的について、どれぐらい考えたかという観点で評価を行うつもりですが、それも苦肉の策です。評価はしないという選択肢があればいいのですが……。

 

日本語、日本語教育のその先へ・・・

授業をしてみて、どう授業をつくっていったらいいのか、教師だけで悩むのではなく、学習者に相談したり、インタビューで学習者の意見を聞いたりしたことは、実はディスカッションを実践していたのではないかということに気づきました。もう一つ気づかされたことは、自分自身のファシリテーターとしての未熟さでした。冒頭でも述べましたが、私自身が対話する力を磨く必要があります。その力なくしては、ファシリテーションをすることは不可能なのです。ネットの炎上や政治の場でのすれ違う議論を見るにつけ、本当の対話の仕方を私たちは身につけているのか、はなはだ疑問に思います。教師も母語話者も、日本語、日本語教育という枠を超えて、対話の仕方を学び、磨いていく必要があるのではないでしょうか。さまざまな場面でコミュニーケション力の大切さが指摘され、私もその言説に乗っかって日本語教師として仕事をしてきました。しかし、どんな力が必要なのか、なぜ必要なのかという点をあいまいにしたままだったのだと思います。

 

『市民の日本語』、ディスカッションの実践をとおして気づかされたことは、幸せに生きたいという人の願いを実現するための重要な手段の一つとして、対話する力があるのではないかということでした。それに貢献できることばの学びとはどんなものなのか、これからも考えていきたいと思います。

​[参考文献]

加藤 哲夫 (2002) 『市民の日本語―NPOの可能性とコミュニケーション』ひつじ書房

 

(2017.02.23)

《プロフィール》

2001年よりタイで働いています。出身が沖縄だからか、どうもタイに合うようで、まだまだしばらくはタイにお世話になりそうです。開学から9年勤めた泰日工業大学を退職し、今年1月に現職のタイのマヒドン大学インターナショナルカレッジに移ったばかりです。タイの教師会の一つであるタイ国日本語教育研究会の運営にも関わっています。

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