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“Other World”意味世界の絶え間ない創造

 

奥田 純子 (おくだ じゅんこ)

 

 

 日本語を学習すること、教育することとは、いったい何をすることになるのでしょうか。私は、それぞれが自分自身の意味世界を絶え間なく創っていくことではないかと思います。

 オランダの版画家M. C. エッシャー(1898~1972)は、“Other World”           という不思議な多次元空間を描きました。現実の世界ではありえない空間ですが、人の意味世界は “Other World”のように一見、矛盾する複数の異次元空間が調和し、大きなユニバースを創っているのではないかと思います。このユニバースは、自己(self)あるいはアイデンティティと言ってもいいかもしれません。

 第二言語として日本語を学ぶということは、第一言語の意味空間の隣に新たな次元“Other World”が出現することとだと思います。けれども、単に知識として日本語を学んだだけならば、それは第一言語の意味空間にシノニム(同義語)として配置されるだけで、新たな次元とは言えないと思います。

 ことばを介した意味の世界は、少なくとも3つの次元がありえます。「犬」も「友達」も「平和」も小さな単語にすぎません。けれども、どの単語1つとっても、3つの次元のOther World”を持ちえます。次元の1つは、辞書的な意味、定義上の意味世界です。2つ目は、言語共同体の暮らし、歴史、思想、感性が沈殿したことばの意味世界です。ことばと文化は不即不離に結びついていますから、2つ目の意味世界の構築は第二言語使用者にはポジティブにもネガティブにも働きます。3つ目は、現実の経験を通して解釈され、獲得されるひとりひとりに固有の意味世界です。これは、実際の生きたコンテクストの中で、日本語というリンガフランカ(共通語)を介して、他者との意味交換によって創られる世界です。G. H. Mead(1934)は、自我(self)は常に社会的であり、他者との相互作用なくして自我というもの成り立たないと述べています。そうならば、次元空間(self)は、他者との日本語リンガフランカを介した社会的な相互行為によってのみ生み出されることなります。そして、さまざまな異なる他者との相互行為が連綿と続くなら、意味世界は不変ではなく、更新され、絶え間なく再構築され続けることになります。社会的行為は、常にコンテクトに埋め込まれています。ですから、だれと、どこで、どんなことが起きたのかという状況をも含んだ、また、そのときの感情をも内包した意味の世界が創られていくのだと思います。教師が日本語ではこう言うとか、日本語の感性はしかじかだと教え込むことは固有の意味空間の創造にはほとんど意味をなしません。では、教師が不要かというとそうではありません。学習者がそれぞれ固有の意味空間を創っていくための他者との相互行為の場や環境を学習者とともに作っていくことが教師の役割だと思います。

 では、一方、教師は日本語の教育を通してどのような意味世界を創造しているのでしょうか。私たち教師は、日々、明日の授業をどうしようかと実践に腐心します。けれども、それだけでいいのでしょうか。日本語教師の“Other World”には、日本語教育に関する「実践」と共に、「科学」、「哲学」の意味世界もまた必要なのではないかと考えます。「実践」は「何を、どう」の世界です。「科学」は、「仕組みを問う」ことを旨とします。現象を理解したり予測したり、あるいは説明したりするためのものです。この科学の知を取り込むことを私たち教師は、これまで熱心にやってきたでしょうか。やってきたとすれば、それはおそらく言語に関する理論の範疇ではないでしょうか。けれどもそればかりでなく、これからは、認知科学、心理学、教育学、学習論、社会学、コミュニケーション論など、私たちの分野に隣接する科学の知もまた意味世界に取り込みながら実践に統合することが必要ではないかと思います。ただ、科学は、その背後に思想やイデオロギーを持ってはいても、他に変えがたいレゾンデートルとしての日本語教育そのものの存在意義や価値を問うことは本分ではありません。「哲学」は、「~とは何か」を問う行為です。すぐに答えが出るわけでもないし、どこかに正解があるわけでもありません。分からなくともトレランス(耐性と寛容性)をもって考え続けることが最も大切ではないかと思います。教育とは、学習とは、ことばとは・・・、日ごろ、自明となっていることを改めてテーブルの上に出すことから意味世界の再創造がはじまります。哲学は、明日の授業にすぐに役に立つものではありません。けれども、教育は人が変わっていくことに関わる行為です。もう少し言えば、教育は学習者の人生の質に関与する行為です。そうならば、私たちは実践と科学の意味世界に留まるだけでなく、教師としての志や使命の基盤となる哲学をしないわけにはいかないでしょう。

 

参考文献:

Mead. G. H. (1934). Mind, Self, and Society, ed. C.W. Morris, University of Chicago. (稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳 (1973).『精神・自我・社会』青木書店)

 

(2016.1.5)

 

 

《プロフィール》

コミュニカ学院 学院長

70年代後半より、外交官、ビジネスパーソン、留学生、日本人社員等への日本語教育に携わる。関心分野は、ビジネス日本語教育、異文化コミュニケーション教育、教師研修。著書に、「教師研修と学校運営」『日本語教師の成長と自己研修』(2006, 凡人社)、「民間日本語教育機関での現職者研修」(2010, 日本語教育学会)、「日本語教師のキャリア形成」(2011, 異文化間教育学会)、「ビジネス日本語教育における日本語教育会の動向」(2012, AJALT)、「連載:グローバル時代のビジネス日本語」(2012, アルク)、『読む力 中級』(2012, くろしお出版)、『読む力 中上級』(2013, くろしお出版)、『留学生のためのビジネス日本語HANDBOOK』(2015, 学情)、「留学生への就職支援としての日本語教育」ウェブマガジン『留学交流』(2015, JASSO)などがある。

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