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日本語教育100年の歴史から未来を見つめる
田中 祐輔(たなか ゆうすけ)
20世紀から今世紀にかけて、世界各地でどのような日本語教育が行われ、そこにどのような人々の交流とドラマがあったのか。私はその一端を明らかにするために、国内外で日本語教育に携わられた教師や学習者、行政府担当者、出版担当者、その家族の方々へのオーラル・ヒストリー研究(注)に取り組んでいます。今回は、その活動概要と気づき、展望と課題について述べたいと思います。
1.転換期を迎える日本語教育
文化庁と国際交流基金の直近の調査によると、国内では191,753名が、国外137の国・地域では3,651,715名が日本語を学んでいます(文化庁文化部国語課, 2015; 国際交流基金, 2016)。学習者数の大半は国外となっている状況ですが、1979年の調査開始以来、一貫して増加していた学習者数が初めて減少に転じました。数そのものに価値を見いだすべきものでもありませんが、現在の日本語教育がこれまでにない状況に直面していることは事実であると思います。
実際、国際交流基金(2016)では、学習形態などの変化についても指摘され、小澤(2001)、水谷(2002)、細川(2005)、有田(2006)、国際交流基金(2009)では、取り巻く環境や状況の変化から日本語教育は転換期を迎え新たな教育パラダイムや内容の確立が必須であることが指摘されています。国内の日本語教育に目を向けても、在住外国人向けの日本語教育の充実が喫緊の課題とされ、日本語教育の社会的役割や今後のあり方が議論される段階にあります。2016年11月8日には、文部科学行政に精通した超党派の国会議員が「日本語教育推進議連」(会長:自由民主党河村建夫元文部科学相)を発足させ、より良い日本社会の実現に向けた日本語教育の推進が目指されています(日本語教育学会, 2016)。
2.「歴史」の大切さ
日本語教育に関わる人々が未来の日本語教育を協働で考え構築することが求められていると言えますが、そうした中で日本語教育の「歴史」に思いを馳せることは大変重要であります。
というのも、私たちの日本語教育の実践、あるいは研究は、必ず何らかの形で過去から現在に至る人々の教育実践や学習の歩みと関わりを持つものであるからです。どのような教授法でも、どのような文法でも、どのような教材でも、過去から全く切り離された形で独立して成立することはあり得ず、先人たちの知見や経験、慣習、思想などから多分な影響を受けるものなのです。であるならば、これから展開される日本語教育について考える場合も、「私たちはどのような歩みを経て来たのか、なぜこうした教育が行われているのか」を理解する必要があると言えます。とりわけ、新たな教育内容や手法、さらには今後のビジョンを検討する際には、現行の教育が形成された過程を正確に理解していなければ、有効な変化を起こすことができずに、かけ声倒れに終わる可能性もあります。歴史的な考察は日本語教育の実践や研究に欠かすことができないと考えられるのです。
3.豊かで貴重な証言エピソード
それでは具体的に、歴史は私たちに何をもたらすのでしょうか。私がお話をお伺いさせていただいている方々は、1920年代にお生まれになった方から現在も日本語教育に関わっておられる方々まで様々です。この内、教材作成に携わられた方々のお話を例に挙げますと、教材の中身についてはもちろんのこと、日本語教育との出会い、教材に込められた想い、制作メンバーとの絆、時代背景、タイトルや装丁へのこだわり、作成プロセス、困難と解決方法に至るまで、非常に幅広い内容についてお話いただきました。
こうしたトピックは、教材やその他の資料に掲載されることが比較的少ない実情があります。また、教材作成に限らず、日本語教育史の中で大きな分岐点となった出来事や決断がいかに行われたかについて等も、記録として残されにくい傾向にあります。約100年にわたる国内外の日本語教育の展開に寄与された教師・行政府担当者・学習者・研究者・編集者の方々の証言には、既存資料に記されにくかった情報が多く存在し、そこには今後の日本語教育と国際化に資する貴重な知見と理念、ノウハウが膨大に含まれています。
4.日本語教育の未来構築と合意形成のために
そうした証言エピソードの一つ一つが私たちに語りかけてくれるものは計り知れません。例えば、先に述べたように「なぜこうした教育が行われているのか」といった実践の変遷を理解する上で、または、先例に学び危機を回避する上で、内容や手法を改善する上で、至要たる手がかりとなります。さらには、それらを総合して「日本語教育学の体系化」(神吉, 2015;名嶋, 2015)も含めた大きな展望が拓ける可能性もあります。
私はまた、これら日本語教育そのものへの影響に加え、社会に対して日本語教育の果たす役割を示す上でも大変に示唆に富む情報となるのではないかと考えています。私たちが、生活する社会や、所属する共同体について分かろうとする時、程度の差はあれ、必ずその歴史というものを通して理解を深めています。また、「生々しさを伝え、読者の感性に訴える点で非常に大きな効果を持つ」(御厨, 2002, p.60)とされるように、人々の証言は他者を説得したり合意形成したりする上で大きな力を持ちます。物事の全体と過程を理解し、それを人に伝え共有する際に、歴史的思考は効果的と言えるのです。ならば、先にあげた在住外国人向けの日本語教育の充実や保障を社会に問う時、社会の構成員に日本語教育の重要性を伝える時、大きな機能を果たす可能性があると考えられるのです。さらに、市民一人一人が当事者意識を持ち連帯や相互理解を深めるという共同体意識の確立にも、証言から歴史を紐解いて行く活動は寄与することでしょう。
以上から、日本語教育の未来構築に加え、日本語教育への認知を社会全体に広げ合意形成してゆくためにも、証言を通した歴史の理解が重要であると考えられるのです。
5.課題と展望
しかし、証言収集には、困難や課題も伴います。例えば、お話をお伺いさせていただく方々や機会は時の経過と共に限られてゆく側面があり、また、証言収集には距離や回数といった物理的な制約も常につきまといます。また、仮に語ってくださる方にお目にかかる幸運を得られたとしても証言収集の意義をお伝えし、お話を拝聴させていただくまでにはいくつものハードルがあります。さらに、人権や法令、研究倫理を厳守する形でお話を記録し、得られた証言を安全に保管・公開するには適切な手法と手続き、ノウハウと十分な措置も必要となります。それら一つ一つの課題に向き合い、過程そのものも記述しながら、じっくりと取り組む必要があるのです。
今日に至る日本語教育が形成された背景とプロセス、そして、そこに生きた人々の人生の証言そのものに目を向けた歴史の記述は、今後の日本語教育の構築はもとより、日本語教育そのものの社会的な理解やプレゼンス向上のためにも必須であると考えられます。
日本語教育100年の歴史から未来を見つめるという立場から、証言収集、そして、その適切な形での記録と公開を通して、現代的課題の解決とビジョン策定のための基礎的資料拡充に取り組んで行きたいと思います。
(注)
計138名:2016年11月時点 本文へ戻る
《参考文献》
有田佳代子 (2006).「教育学」としての日本語教育―その構築過程にある現況―『敬和学園大学研究紀要』15, pp.129-147. 敬和学園大学.
小澤伊久美 (2001). パラダイムの転換期にある日本語教育―教育学的見地から日本語教育を考える―『ICU日本語教育研究センター紀要』10, pp.29-30. 国際基督教大学.
神吉宇一 (2015). 「日本語教育学の体系化をめざして(1)―日本語教育学に関する議論の推移と社会的役割について―」神吉宇一(編)『日本語教育 学のデザイン―その地と図を描く―』pp.3-25. 凡人社.
国際交流基金 (2009).『JF日本語教育スタンダード試行版』国際交流基金.
国際交流基金 (2016).『2015年度「海外日本語教育機関調査」結果(速報)』国際交流基金.
名嶋義直 (2015).「日本語教育学の体系化をめざして(2)―日本語教育関係者の社会的役割について―」神吉宇一(編)『日本語教育 学のデザイン―その地と図を描く―』pp.27-52. 凡人社.
日本語教育学会 (2016).「日本語教育推進議員連盟の発足について」『日本語教育学会会員向け一斉メール (2016.11.10付)』公益社団法人日本語教育学会事務局.
文化庁文化部国語課 (2015).『平成27年度国内の日本語教育の概要』文化庁文化部国語課.
細川英雄 (2007).「日本語教育学のめざすもの―言語活動環境設計論による教育パラダイム転換とその意味―」『日本語教育』132, pp.79-88.日本語教育学会.
御厨貴 (2002).『オーラル・ヒストリー―現代史のための口述記録』中央公論新社.
水谷修 (2002).「21世紀の日本語教育研究への期待」『総合的日本語教育を求めて』pp.3-5. 国書刊行会.
《プロフィール》
筑波大学日本語日本文化学類卒業。早稲田大学大学院日本語教育研究科博士課程修了(博士:日本語教育学)。中国復旦大学日本語学科講師、日本学術振興会特別研究員、早稲田大学大学院日本語教育研究科助手を経て、2016年12月現在、東洋大学国際教育センター講師。主な著書・論文に『現代中国の日本語教育史―大学専攻教育と教科書をめぐって―』(2015、国書刊行会.第32回大平正芳記念賞特別賞受賞)、「初級総合教科書から見た文法シラバス」(『データに基づく文法シラバス』、共著、2015、くろしお出版)、「初級総合教科書から見た語彙シラバス」(『ニーズを踏まえた語彙シラバス』、共著、2016、くろしお出版)などがある。